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理で戦う

(本)日本語が亡びるとき-文学部本気出せ

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「どうも西洋人は美くしいですね」
と云った。三四郎は別段の答えも出ないので只はあと受けて笑つて居た。
すると髭の男は、
「御互は憐れだなあ」
と云ひ出した。
「こんな顔をして、こんなに弱つてゐては、いくら日露戦争に勝つて、一等国になつても駄目ですね。尤も建物を見ても、庭園を見ても、いづれも顔相応の所だが、
ーあなたは東京が始めてなら、まだ富士山を見た事がないでせう。今に見えるからご覧なさい。あれが日本一の名物で。あれより外に自慢するものは何もない。所が其富士山は天然昔からあつたものなんだから仕方がない。我々が拵へたものぢやない」
と云つてにやく笑つてゐる。三四郎は日露戦争戦争以後こんな人間に出逢ふとは思ひも寄らなかつた。どうも日本人ぢやない様な気がする。

「然し是からは日本も段々発展するでせう」と弁護した。
すると、かの男は、すましたもので、
「亡びるね」
と云つた。



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ポスト漱石は現代に産まれ得るか?否


夏目漱石の『三四郎』が東京朝日新聞に連載されたのは、今から約百年前の明治四十一年。日露戦争で日本が戦勝をあげてから三年たったところである。日露戦争の近代のなかでの意味は、西洋にあらざる国が、西洋に勝ったことにあるといわれている。
(中略)広田先生に「亡びるね」といわせたのは、たとえ西洋相手の戦争で勝っても、近代国家として日本がまだいかに脆弱であるかを知る漱石の目である。
(中略)永久に残ったのは、一九〇八年、すでに『三四郎』のような小説が出版され巷で流通していたという事実である。登場人物が自分の国のみならず、自分もその一人である国民のありかたを、それこそ「世界的」な視点から見て批判し、かつ憂えるという、優れて国民文学的な小説、しかも何度読んでも飽きない、文学としてもまことに優れた小説が出版され巷で流通していたという事実である。日本は非西洋にありながら、西洋で〈国民文学〉が盛んだった時代に対して遅れずして〈国民文学〉が盛んになったという、極めてまれな国であった。



水村美苗著の『日本語が亡びるとき』を読了しました。強く薦められた本であった為期待大でした。他の方がレビューで書いている通り、生まれて以来日本語を操るホモ・サピエンスはこの本を読む事を納税と同じ義務にしても良いのではなかろうかと自分も思う程に名著であります。
当著は日本語の歩み、日本文学の歩みを日本史のみならず世界史を踏まえて解説(正に漱石視点)しており、日本が如何に強運に恵まれて国民文学を発展するに至ったか。そして世界に目を向けた章では「自分達の言葉」を掛けたあらゆる「闘い」の話、特にフランス語やフランス文学の没落については半ば嘆き混じったニュアンスで書いているのが印象的。
そして最後に、日本語の辿る未来について論じております。

筆者は常に『翻訳』という行為を文学の中心に据えて考察を行います。例えば冒頭に長々と写したかの名作『三四郎』も西洋文字で殆ど語られない=英語に翻訳されない現実がのし掛かります。日本語の繊細なニュアンスは英語に変換された時に全て失われ世界的な評価を得られないケース。『三四郎』発表は明治維新間もない頃ですが、漱石と同等の才能をもった作家が現代にいるとするのであれば日本語で「三四郎』を発表する必要は無い、普遍的な言語となる英語しかあり得ない、と。そして、同様のケースは日本語やフランス語以外のありとあらゆる言語に降りかかっており、英語以外の言葉は全て「話し言葉」に成り下がります。いずれは自身の言語を真剣に勉強しようとする必要も無くなるでしょう。


この間に文科省が国立大に対し文学部の必要性について見直す通知を行った事も記憶に新しいですが、日本文学の善し悪しが本当にわかるのは日本語を学び話し書く事が出来る我々だけに許された特権であります。いくらインターネットで瞬時に文化商品が流通しようと、千差万別の言葉がある以上は真にグローバルな文学は存在しません。作中では、グローバルでの考察対象としてハリーポッターの他にハリウッドについても述べています。

ハリウッドでは輸出ありきで巨額の制作費を投じている映画ほど、わざと台詞を抑え、捉えにくい個別の現実は描きません。その代わりに必ずと言って良いほど登場するのは人類に共通する「神話的世界」。最先端の映像技術を駆使して繰り広げられるのが紀元前から続く古臭い善悪の戦い…という作品が氾濫する所以であります。種明かしをすると笑いが止まりません。

〈商業主義=英語=グローバル≠翻訳〉
の証明です。つまり言葉の力だけはグローバルなものとは無縁でしかあり得ないのです。
その事実が言葉の力だと実感します。



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ハリーポッターは二〇〇一年にUKで発表されて以来、英語圏が非英語圏を飲み混み、世界的な英語教育への雪崩を起こす起点となった。



著者は英語教育と日本語教育についても詳しく私見を述べています。船橋洋一の『あえて英語公用語論』も然りですが、語学と翻訳については日本人の人生にリンクして考えられるテーマである為、国としての対応は待った無しでしょう。歴史書としてもビジネス書としても是非。

英語の世紀に突入した現代。日本語を大事にしない国が英語を話せるようになる事等、夢物語に過ぎない現実。文学部の逆襲というか、日本文学のハリーポッターが産まれる様な未来を望みたい次第でふ。



緒方塾生時代の福沢諭吉の、翻訳作業に関する逸話。ペンダコ半端なかったろうな。

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『三四郎』は、朝日新聞社にて特設サイトが開設されております。其方も是非。

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デフォルメ



追記:筆者は日本語至上主義者などではありません。日本人が英語で物事を述べ、書かないと世界に対して意見を出せない残念な今の状況にも言及しています。
英語が書けない即ち外交面という名の殴り合いでも遅れを取るという事です。
何かについて日本語でいくら反対をしても、何も起きないという事です。
語学力のハンディが、国の未来にとっては障壁だという事です。